空手が柔道の一部として小学校教育に導入された時期がありました。
第二次大戦で日本の敗戦が近づいていたころ、昭和19年頃だったと記憶するが、小学校では空手指導が行われるようになった。主に柔道を経験した教師が指導にあたっていた。なぜ空手を柔道の一部として行う方針を決めたのかは不明だが、当時の小学校の授業では、戦況の逼迫とともに、国語や数学の授業は姿を消し、竹槍訓練、手榴弾投擲訓練、手旗信号が中心だったから、空手が実戦的だと言う考え方だったのではないか。空手が実戦的だなどとはとんでもない誤解なのだが、役にも立たない空手授業が行われたので、これが義務教育で必須教科として行われた最初だろう。
船越儀珍先生が本土に唐手を紹介したのが大正12年、それが20余年で空手となって義務教育の場に登場した。それも柔道として行われたのだが、柔道の授業は全く行われず、空手ばかりが指導された。
ただし、その空手たるや酷いもので、素人の柔道の先生が講習を受けただけで指導するのだから、いま考えると到底空手とは言えないような噴飯ものの空手だった。
竹槍練習は、白兵戦の経験豊富な兵隊さんが派遣されて指導した。藁で作った米俵ほどの大きさの巻き藁を、2本の杭で挟んで地上に建てたものを竹槍で突いて引き抜く、巻き藁練習が主なものだった。手榴弾は立ち投げ32メートル、伏せ投げ16メートルを目標に訓練を重ねた。手旗信号は赤旗1本だけでの陸軍式手旗信号だった。(海軍式は赤白2本を使う)
例、トツー(イ)、トツートツー(ロ)、ツートトト(ハ)・・・カッコ内は信号に相当する文字
天気の良い日は、銃剣術(竹槍)、手榴弾、柔道(空手)、そして農業、雨天は手旗信号、空手だった。
沖縄県の県立男子中学校、男子師範学校で授業として指導されたのは明治38年だったが、本土の学校で空手が教科として登場したのは昭和20年に近いこの時期だった。それをご存じない方が多いのではないか。と言うことで最初に載せてみた。
沖縄県男子中学、師範学校とも指導は嘱託教師となった糸洲安恒だった。男子中学の助教は花城長茂、男子師範緒の助教は屋部憲通だったことは皆さんよくご存じだろう。
向かって左の方で白髭を蓄えた方が糸洲先生、右隣は校長先生、左隣の方は柔道の先生だと伺った。
この写真は金城裕先生(当連盟の初代会長の師匠や筆者の恩師)がお持ちだったが、今は沖縄県立図書館に保管されている。
金城先生はこおの写真を徳田安文先生(糸洲門下で男子中学の唐手部顧問)から頂いたそうである。