空手歴など

ご家族

 中村先生は独身で過ごされごく近い近親者はお出ででなかったので詳しいことはほとんど知らない。晩年は私と一緒にいることが多く、近すぎて問わず語りに聞かされたこと程度しか知らない。今になれば詳しくお聞きすればよかったと悔やまれる。

 私と知り合った頃は武蔵野市の都営住宅にご母堂と二人で暮らしていると聞いた。ご母堂のお名前は聞いていたが、忘れてしまった。千葉県市川市の和洋女子大学で事務職員として働き、女手一つで中村先生を育てたようである。お父様はお医者さんだったそうだが離婚された様に聞いている。

 

幼少期

 中村先生の幼少期は、鹿児島で過ごされた時期が長かったらしいが、奄美大島で過ごされた時期もあったらしい。島は嫌なところだと言っていた。台風が来ると身動きが取れず、物資も不足して何とも困ると言うお話しだった。島で育った方なら当たり前のことだっただろうが、鹿児島育ちの中村先生は閉口されたらしい。

 鹿児島のお住まいの地名は忘れたが士族部落で、部落中で示現流を日常生活に取り入れていたらしい。

隣部落との間には杭を二本斜めに十字に組んだものを二組み立て、そこに木の枝を束ねたものをはめてあり、棍棒が立てかけられていたと言う。これは言葉での説明では分かりにくいだろうが、昔は何処の家にもあるもので、そこに松の薪を載せてノコギリで使いやすい長さに切っていた。それをさらに薪割りで割って補足して、お風呂などを湧かしていた。だから話しだけで即座に理解できた。

、子供たちが隣部落に遊びに行くには、そこで木の枝束ねたもの(鹿児島で何を使っていたかは聞かなかったが、私の地方では木の枝を束ねると言えばケヤキに決まっていたし、棍棒もケヤキのはずだった)を棍棒で百回たたかなければいけないきまりになっていたそうだ。帰ってきて部落に入る時も同様だったそうだ。要するに鹿児島士族の子供たちは、毎日の生活の中に示現流が取り込まれていたらしい。中村先生の家は上級紙属とは聞かなかったので下級士族だったらしい。おそらくそれが薬丸示現流の鍛錬法だったのだろう。西南の役で西郷軍と官軍が戦った時、西郷軍の抜刀隊が大変な威力を発揮した。そこで官軍も腕の立つ剣士を集めて官軍抜刀隊を編成したのだが、西郷軍の抜刀隊には歯が立たなかったそうだ。日常生活の中で鍛錬された示現流の兵士と、大人の健全娯楽(武術とはそう言うもの)として道場で練習した棒振り剣術では、実戦での集団戦闘では威力が違っていたのだろう。

 

思春期の頃

 第二次大戦中は、ご母堂が中村先生を連れて東京へ出て来ていて、中村先生も学徒動員で中島飛行機(武蔵野の緑町あたりにあった航空機のエンジンを作る工場(現在の富士重工)で働いた時もあったようだ。私はその頃は千葉県の九十九里浜で上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つための砲弾を格納する防空壕堀に従事していた。

 しかし、広島、長崎に原爆が落とされて日本は間もなく連合軍に無条件降伏して戦後となった。金城先生は歩兵小隊長として南方を転戦して復員してきた。後に韓国ヤクルトの社長になる伊㬢昞しが東京・大手町に韓武館道場を創設され、金城先生はそこの主席師範に就任していた。中村先生はそこの門を叩かれたのでS留。

 

韓武館時代

 中村先生は韓武館の門下生となったが、それだけでなく金城先生の内弟子になった。そこで本格的な空手修行が始まった。連日の厳しい組手練習、時折の型練習、もちろん中心は組手だった。(続く)