唐手は武術ではない

 唐手は学校体育のために沖縄県視学官の公募により制定されたもので、学校体操であり、最初から武術ではなかった。唐手の名称は学校体操として公募されたときに命名された。(明治38年)公募応じたのは、糸洲安恒と東恩納寛量だったと伝えられる。

 糸洲の編纂した手が学校体操として採用され、東恩納の手は不採用となった。理由は不明だが、恐らく糸洲の手は集団で行うのに都合よく出来ていたのではないか、残っている当時の写真は集団で正拳突きをしているものが多いからだ。

 唐手が採用された同じ年、それを組手に編成した文書「空手組手」が男子中学(現在の首里高)空手助教(体操教師)花城長茂によって書かれた。空手と言う文字は明治38年から存在するので、船越儀珍先生が命名したとするのは誤りだが、花城宣氏は「徒手空拳の空」、船越先生は「色即是空の空」と言うことで、意味が異なる。

 なお「からて」でなく「とうで」(唐手)と言うのも存在したが、これは内容が異なる。「からて」は学校体操だが、「とうで」は中国拳法である。

 「とうで佐久川」と呼ばれた方が有名で、松村宗棍の師匠かとも言われているが、佐久川さんは北京で亡くなり、のちに松村宗棍がその遺骨を沖縄に持ち帰っている。(これが佐久川が六村の師ではないかと言われる理由)

 

在来の手と唐手(トウディ、空手ではない)

 在来の手も中国から伝えられたもので、公相君とかワンシュウとか中国人の官名や人名の付いたもの、歩数(十三、十六、十八、二十四、三十六、五十四、百八など)などがある。在来の手は伝わった時代が古く、新しく伝えられた手(新しいから正しいと考えられたはず)が、「とうでぃ」と呼ばれたと考えられる。

 中国拳法は格闘術から生み出され、格闘術よりも高い目標(人に勝つことではなく健康で幸せな生活を築く)に進化した健康法だと考えられる。それが本来の姿だが、そこから格闘術を導き出そうとする動きが出るのも当然で、健康法の他に武術としての中国拳法も生み出されることになる。

 糸洲の唐手は、この在来の手(主として泊地方の手)から生み出された学校体操で、集団で行う西洋式軍事教練に適したものとなっている。だkらこれを格闘術と誤解すのは間違いだ。

 

東恩納の手と剛柔流

 在来位の手や唐手(からて)制定当時は消えていたかも知れないが、久米村の人たちが伝えた「久米の手」と言うのあり、松村宗棍が創始し幻となった首里の手(これは武術だったらしい)もあり、その中で糸洲の編成した唐手が学校体操として脚光を浴びた。

 東恩納の手は唐手にはなれなかったが、東恩納の弟子の宮議長順が、学校体操式のゲキサイを考案し、商業学校で唐手として採用された。ここに第2の唐手が生まれ、宮城はこれを剛柔流と命名した。ここに二つの手が存在することになり、糸洲の手を唐手、宮城の手を剛柔流と呼ぶようになり、沖縄には糸洲の唐手と宮城の剛柔流が存在することになった。

 

唐手と剛柔流

 最初に生まれた唐手と後から生まれた剛柔流が存在したので、その対比が生まれ、唐手と剛柔流の双方が、空手と呼ばれるようになり、ここに空手と剛柔流空手と二つの空手が存在することになった。唐手から生まれた空手の人たちは流名を拒否し、船越義珍、遠山寛賢らは最後まで琉名を拒否したが、流派名が広がりを見せ、剛柔流から始まり和道流、糸東流、松濤館流いか200流程度は出来ているのではないかと思う。

 「流名が付いた空手は空手ではない」と言い続けたのは、船越義珍、遠山寛賢、金城裕、伊藤幹之などで、筆者も先輩たちに倣って琉名は名乗らない。

 

結び

 ここで今言う空手を考える時、大事なことは空手も剛柔流も武術でも無ければ格闘術でもないことで、空手は西洋式学校体操、剛柔流は健康法だと言う原点に立ち返ってから考えるべきだ。そこから格技スポーツ(格闘)としての方向を模索しながら空手スポーツを打ち立てなければならないだろう。