東洋哲学は一元論

 空手と空手道、剣術と剣道、弓術と弓道。これはどこが違うのかと言うとことも違わない。全く同じものである。ところが野球やサッカー、テニスや卓球などは、スポーツマンシップが伴わない者はスポーツではないとされる。これは西欧スポーツだからである。

 技術+スポーツマンシップ=それぞれのスポーツ、と言うことになっている。

 

 この西洋哲学を当てはめると、空手+スポーツマンシップ=空手道、となる。欧米人が行う空手はこの考え方でよいだろう。日本人がこういう考え方では困る。東洋哲学は技術=倫理である。技の精粋をきわっめることで道に達すると言う考え方である。

 

相対立する同質の概念

 高い、低い。重い、軽い。美しい、醜い。強い、弱い。etc.  これらはみな同質の概念で、比較の上でだけ対立概念となる。要するに同質のものの程度の問題でしかない。東洋哲学ではこれを同じものと捉える。だから、攻撃と防御は別のものではない。防御の最善策は攻撃だと言うことになる。

 空手を空手術と道に別けることがすでに可笑しい。手と術は同じ意味だし、道は手や術の中に存在しなければならない。

「不器用も器用もともに実ありて功の積もれば道を知るべし」(剣術の古歌)

 不器用な人も運動能力に優れた人も、どちらもよいところがあって、練習を積めば自然に「道」が分かるだろう、と言うような意味。

 道を知るとは極意に達すると言うことで、スポーツマンシップと言う意味ではない。

 

 一般には道徳、倫理。現代日本人の誤解によれば、「道」だろうか。技術に関わる道は、老荘思想の道なのだが、一般には儒教道徳と誤解されているらしい。

 儒教道徳とスポーツマンシップは非常によく似ている。何故かと言えば、どちらも典型的な封建道徳で、スポーツマンシップは。近代の考え方、民主主義的な考え方の良くない面に対するブレーキとして重視されている。

 ところが現代ではこれが大分怪しくなっている。アマチュアスポーツと言う言葉があるが、本来はスポーツとはアマチュアだけのものである。プロとはそれで生計を立てるもの、すなわち商売人のことである。プロスポーツなどと言うものは存在しなかった。

 私は西洋人がどう考えているか、興味があって、英国の青年に聞いてみた。プロのスポーツはないと、にべもなかっただけでなく、それを聞いたことで軽蔑された。複数のアメリカ人にも聞いてみた。異口同音にプロのスポーツもあると言う答えだった。イギリス人とアメリカ人とではスポーツに関する考え方が正反対であることを知った。

 

 オリンピックも同様である。スポーツマンシップ、アマチュアイズムが本来のオリンピックだった。今は全く違って、商売人、芸人がオリンピックに出場するようになっていている。商業主義オリンピックと言うことなった。

 スポーツマンシップがなぜ封建道徳かと言うと、アマチュアがスポーツをやるとすれば、余暇のある人でなければできない。十分な余暇を持つのは貴族だけである。貴族が行うものだからアマチュアイズムも生まれたし、スポーツも生まれた。スポーツマンシップとは貴族階級の倫理である。儒教がそうであったのと同じことだ。

 日本の大名の子孫の方たちはみな立派な人たちだった。貴族は十分な手当てを頂いて優雅な生活をしていたので人格もそれにふさわしい立派な人になるようになったらしい。その方たちがみな困って財産を市や町に寄付して、それが、今は宝物館などになって観光に供されている。なぜそうなったかと言うこと、戦争に負けたからである。アメリカ軍によって貴族階級は解体させられたからだ。