薩摩藩の禁武政策で空手が発達した? そんなバカなことが!

平和でないと武道は発達しない

 薩摩藩による琉球侵攻で、薩摩藩が禁武政策を敷いたから空手が発達したと言う、とんでもない正反対の誤解が普及している。空手に限らず、武術に限らず、芸事は平和な時代に発達する。戦時には芸事にうつつをぬかしているような余裕はないから当たり前の話だ。空手が「身に寸鉄を帯びない威力のある武術」などと錯覚するからそのような誤解が生まれる。

 剣術やその他の武術も同様である。日本武術は茨城県の鹿島、千葉県の香取の水郷地区が発祥の地だが、武術が発達し始めたのは鎌倉時代のような殺伐として時代ではなく、室町時代以降である。江戸時代に入ると百花繚乱として武術も真っ盛りになる。

 この武術の本質は、戦いのための技術と言うよりは健全娯楽の面が大きかったのである。武術の代表のように考えられている剣道は、大規模な戦闘で使われたことは一度もない。日本刀を抜き連れて白刃の元で生死を賭けて戦うなどと言うのは後世の想像でしかない。新選組の近藤勇、土方歳三など、みな健全娯楽道場の出身者である。

 このような中で、薩摩藩の示現流(おそらく薬丸派か)だけは実戦を志向していたようで、これは中村孝初代会長がよくご存知だった。中村会長は薩摩藩士族だったからであるが、これについては後述する。空手と示現流は密接な関係がある。

 筆者の祖父は剣術道場を持っていて剣術(当時はゲッケンと言った)を指導していて、筆者の部落の老人たちは多くは祖父の弟子だったようである。

 

侍に芸は不要

 ここで言う芸とは剣術のことで、剣術遣いは当時芸者と呼ばれていた。「侍は芸者すなわち剣術遣いである必要はない」と言うのは、佐賀藩の武士道書として有名な「葉隠」で、これを著述した山本常朝の意見である。主家への忠義、命を惜しまない「死に狂い」であれば十分で、剣術など必要がないと言うことである。これは武術、武芸の本質をよく表していると思う。

 水戸藩の浪士が櫻田門外で井伊直弼を斬った時に漏らした「道場の剣術」とは全く違ったと言う感想がそれを表している。筆者は第二次大戦でインドネシアで現地人の蛮刀と渡り合った剣道の先生から聞いた話では、剣道が役に立ったことはなかったと言うことだった。実戦では芸事はあまり有効ではないのだろう。

 葉隠れには他にも面白いことが書いてある。「釈迦も孔子も我が家の人にあらざれば・・・」と言うことで、侍には仏教も儒教も不要だと言う。江戸時代の多くの藩が、藩校で、儒教(朱子学)に基づく藩士の子弟を教育していたが、それを意識しての佐賀藩としての武士の心得を記したものだ。これは世間に空手と仏教、空手と儒教(道)を結びつける人が多いが、それに対する警鐘ともなるさろうと思う。

 空手の創始者である糸洲安恒先生の言葉に、「唐手は儒仏道より出でしものにあらず、往古、昭林、昭霊の二流支那より伝わり・・・」とあるにも関わらず、色即是空だとか言う人がいるが、そこが問題だろう。

 

武道でも武術でもスポーツでも

 一般に大都会の人が強く、東京や大阪が中心だろうが、戦場で最も強かったのは、東北師団、熊本師団と言われていた。逆にもっとも弱かったのは東京師団と大阪師団だったそうだ。戦場での働きと芸事が違うのはこれでもよくわかる。

 日本の最弱師団である東京師団の中では、群馬県の高崎連隊と千葉県の佐倉連隊が最強連隊だとは、筆者は子供のころから聞かされていた。理由は二つの連隊とも百姓連隊(田舎者の連隊)だからと言うものだった。芸ごとは都会人が優れ、戦場では田舎者が優れていたと言うことで、この辺の事情はよく理解できるではないか。

 

西郷軍の抜刀隊と警視庁抜刀隊

 警視庁抜刀隊については後述するが、田原坂での日本刀を使った実戦では、西郷軍の抜刀隊の方が警視庁抜刀隊よりはるかに優勢だったそうである。初代会長の中村先生から伺ったところでは、こどもたちが部落を出て遊びに行く時は、部落の出口に設置していある木の枝の束をそこに置いてある棍棒で百回叩いてから出ることになっていたそうだ。帰る時も同様だったと言う。下級武士の子弟には、部落の出入りには必ず木の枝の束を百回叩くことが義務付けられていて、それが鹿児島士族の戦闘力の基礎を作っていたらしい。

 一方、警視庁の抜刀隊は、それに対抗するために、剣術道場の先生方を集めた急ごしらえの部隊だったようで、いはば芸者の集まりだった。幼少の頃から人を斬るために鍛え上げた薩摩藩士たちと芸事として習い覚えた剣術道場の先生方とでは、下地から違っていたと言うことだろう。