武蔵野市空手道連盟の沿革

武蔵野市空手道連盟の創設(昭和33年4月)

  武蔵野市空手道連盟は、中村孝初代会長が創設されたもので、実際の創設時期は明確ではないが、連盟規約が制定されたのが昭和33年とされ、同規約は昭和33年4月1日から施行された。従って正式には昭和33年創設と言うことになる。中村先生が26歳の頃かと思う。大東文化大学を卒業して間もない頃だったろう。この頃、中村先生は金城先生から四段を頂いていた。全空連や都空連の高齢の大幹部の先生方が、茶帯や白帯だった頃のことである。 

 

連盟規約 (半世紀の間有効に働いた原規約)

  同規約は、三谷和也理事長(当時)が、平成23年4月1日に改定するまで使われたので、昭和33年~平成23年までの50年間にわたって使われた。(その後は諸事情があって頻繁に改訂された。)

 これは創設した中村先生が、戦後空手界の生き字引であり、東北から九州。沖縄に至るまで空手界に大勢の知己を持ち、空手界の事情に精通した存在だったから、誰もが認めざるを得ない大師範だった言う事情があった。それが50年間の平和な武蔵野市空手道連盟を運営できた理由である。

 

初代会長 中村 孝 先生 略歴

 中村孝(昭和6年2月生)は、平成23年10月に81歳で永眠された。

 全空連初代審判副部会長で、審判員手帳番号が1番であり、これは会長の自慢の一つだった。

 歴任した空手関係組織の役職等を列挙すると、

 全空連中央技術委員、二級資格審査員、全空連七段、東京都空手道連盟事務局長等を歴任した。

 

 金城裕門下としては、昭和21年に韓武館(全空連錬武会の前身)に入門したのが空手修行の始まりだった。韓武館は大手町にあり、伊蟻柄館長、金城裕師範と言う体制であった。入門時の中村会長は15歳で、芝浦中学校の三年生だったかと思う。

 その後、金城先生が有倫館、養成館などの道場を立ち上げられ、会派としても大朝会(後の日本空手道研修会)を設立され、中村会長はそれに従っていた。押上にあった修徳館は中村先生が設立し、金城先生をお呼びしたと聞いている。

 そう言うわけで、武蔵野市空手道連盟を立ち上げたのは昭和33年だが、武蔵野で空手道場を始めたのは恐らく昭和20年代後半だったろうと思う。赤門のある家の庭をお借りして始めた道場だったので、道場名は赤門道場と称した。

 

 中村先生は金城先生の内弟子として、金城先生のお嬢さんの子守などをしながら空手の稽古を続けていたという。

 養成館の道場名は、沼津の渡邊貞雄先生が継承され、現在の鴻志会となっている。修徳館の名は、藤沢の八田浩先生が継承されたが、今はどうなったか不明である。  

中村先生のご出身

 中村先生のお父さんは医者だったそうで、ご先祖は薩摩藩の士族、西南戦役では西郷隆盛軍に加わって田原坂で戦死されたらしい。事情があってお母さんは離婚されたらしく、女手一つで中村先生を育てたようである。そのため中村先生が子供の頃上京し、和洋女子大学に事務員として勤められた。

 中村先生の一族の方たちは大日本剣道をされる形が多く、著名な剣客もいらっしゃったらしい。中村先生は子供のことで空手に興味をお持ちになったようだが、ご母堂からは叱られ通したようだ。

 私も先生のご母堂からは叱られたことがあった。

 「金城先生がどんなにいい方でも所詮は島人です。島人の芸事を習ってはいけません。」いまならヘイトスピーチとなるような発言ですが、土地がらにそのような雰囲気があったのでしょう。

 向かって右から、日本空手道研修会初代会長金城裕先生

 中心が武蔵野市空手道連盟初代会長中村孝先生(日本空手道研修会第三代会長)

 左端が三谷和也現武蔵野市連盟会長(NPO法人正統唐手成徳会最高師範)

 の三人である。 背景は、首里手の創始者松村宗棍の眠る松村家の墓所(那覇市)である。

 

在来の手は示現流の技法を取り入れて首里手に

 空手は泊手の糸洲安恒が編成したものだが、糸洲安恒とその門下生たちは松村宗棍の創始した首里手を目標としていた。これは糸洲の師である泊手の長濱親雲上の示唆によると伝えられる。このため糸洲は松村の門下ではないが、松村の後継者のように誤解されている面もある。

 しかし、中村初代会長のの師、金城裕先生は、師の大城朝恕や先輩の本部朝基の指導もあり、深く首里手を研究された。そのため、糸洲安恒への墓参の際は、必ず松村宗棍の墓参も行った。それが前掲の写真である。

 さらに中村初代会長と薩摩示現流とは深い関わりがあった。中村先生は幼少期を薩摩の武家部落で過ごされたので。部落の出入りでは必ず示現流の習慣で、木の枝を束ねたものを備え付けの付けの棍棒で百回叩くことが義務づけられ、それを行ってそうである。

 このようなことから、赤門道場や成徳会道場で行っていたのは単に空手だけではなく、首里手への回帰を目標としたものだった。

 現代空手競技で行われている上段前手突きや上段追突きは、三谷第二代会長が、首里手のナイファンチや空手の平安二段から生み出したものであった。

 

初代会長を支えた人たち

 今は資料がないので、詳しいことは失念したことが多いが、記憶を辿ると、初期の頃は、門下生には芦田先生がいた。お名前は失念したが、北町にお住まいだったように記憶している。全空連理事を務められた方で、赤門道場の重鎮だった。

 調布市にお住まいで日産自動車にお勤めだった須藤茂先生は、長く武蔵野市空手道連盟の理事長をされ、平成22年まで理事長職を全うされた。お亡くなりになったのが平成21年で、最後は三谷(第二代会長)が理事長を努めた。

 昭和20年代から続いた赤門道場には、多くの人たちが集まり優秀選手も輩出して隆盛を極めたが、時代とともに次第にばらばらとなって衰退していった。三鷹市空手道連盟の現会長石井良治先生(三鷹市議会議員)も昔は赤門道場の門下生だったそうである(現在は糸州会会員)。

 

 平成二十年代には赤門本部道場(吉祥寺北町第四小学校体育館)の門下生は年配者ばかりとなり、、加納實、新極信行、上別府、鎌田などと言う人たちだけとなったが、その頃、赤門道場には八潮支部(埼玉県)が出来ていて、中村師範、恩田斉道場長の体制となっていた。吉祥寺北町の赤門道場とは異なり、赤門八潮支部道場(八潮中学校武道場)は少年中心で、それも関東地区では圧倒的な競技力を示していた。

 日本空手道研修会の大会では常に赤門八潮支部が圧勝していた。これが現在の成徳会所属赤門道場である。 

 

赤門道場の推移

 金城先生の空手指導は大手町の韓武館(伊館長、金城師範)から始まり、その後有倫館(駒込)と続き、中村先生は韓武館時代金城先生に入門した。有倫館では内弟子となった。その後、養成館、修徳館を経て、赤門道場を創設した。

 赤門道場は組手の強い道場として、三多摩地区では名声を響かせていたが、年を経て次第に衰退した。中村先生の晩年は、赤門八潮道場が日の出の勢いとなっており、中村先生は木曜日は赤門八潮道場へ土曜日は第四小学校の赤門本部道場へ通うようになった。赤門門八潮道場は中村先生の意向もあって、月曜日には三谷成徳会師範が指導に通っていた。この頃は吉祥寺の赤門道場は壊滅状態となっていた。

 従って、日本空手道研修会にあって赤門道と言えば赤門八潮支部道場を指していた。現在は成徳会と友好関係を保っているので、成徳会赤門道と称している。ただし、赤門道場は中村孝初代会長の団体なので、武蔵野市空手道連盟の中では、赤門道場として独立道場である。その理由は道場が武蔵野市内にないことから、成徳会の庇護下でないと赤門道場の名跡が途絶えてしまうからである。

 

       三谷師範と中村会長

 

 中村会長、恩田赤門道場長、中心は恩田夫人


中村会長逝去

 中村会長が逝去されたのは平成24年の10月、11月には中村会長のお別れ会を武蔵野市スウィングホールで執り行った。

 河上一雄武蔵野大意協会会長、太田昌克全空連関東地区議長の弔辞の他、会長の僚友藤本貞治品川区連盟会長、島野都空連常任理事、井口秀男武蔵野自民党幹事長(中村会長は若い頃からの自民党員)など、多数の都空連活気幹部の列席、献花を頂いた。

 この詳細は間もなく掲載する予定である。

 

会長逝去後の市連盟の体制と紛糾

 平成23年、24年は中村会長が重病のため、独身だった会長の入院や帰宅時のケアなど、数人の役員がこれに関わり、連盟の運営はなおざりになっていたが、会長のお別れ会の後に新体制が発足した。それは次のような陣容であった。

 

〇会 長  三谷 和也 成徳会会長       千葉県在住、これが後に問題となる。

〇副会長  依岡 正宗 国際空手協会会長    会員300人と称するが連盟向きの団体ではない。

×相談役  露木 正司 武蔵野糸東会会長    元武蔵野市議でここに問題が・・・。

×相談役  田中 清春 調布市空手道聯盟会長  和道会、学連関係者、中村会長の友人。

×理事長  新極 信行 赤門本部道場長     中村門下、ただし、会員はゼロで力量に欠ける。

×事務局長 森本 拓弥 高橋美枝氏の代人    高橋氏は幹部役員になる資格がないため。

×理 事  高橋 美枝 足立区空手道連盟理事長 会長の補佐として、武蔵野市連を支配する目的。 

 その他  数人の理事

 と言うような体制だった。これが発足したのが平成24年の4月であった。

 ところが、大規模競技会、ハイレベル選手を抱える連盟運営に慣れていないなどの理由から、理事間で紛糾が起こり、その収拾に混乱を生じた。

 その結果×印を付けた役員がクーデターを敢行する事態に至ったが、理事の多数が同調しなかったので破綻した。 

 

連盟運営は正常に戻る

 この紛糾は平成25年8月から始まり、翌年の11月まで、約1年3ヶ月にわたり続いたが、平成26年11月に市体協の裁定があり終了したので、その後は正常に運営されている。

 この騒動で、,武蔵野空手同好会(誠心塾、空和会、他)と武蔵野糸東会の2団体が本連盟から脱退した。

 平成27年度に入ってからは、連盟所属団とその役割茂明確化され、正常に運営されている。なお。一度脱退した糸東会が再入会して来たので、脱退のままなのは武蔵野空手同好会だけであり、実勢力は十数名程度と見られる。

 

 

連盟の構成団体

  この結果、武蔵野市所属団体は、次のようになっている。

1.赤門道場 (設立当初から続く団体武蔵野市連盟で約60年)

2.武蔵野糸東会 (昭和の末期に参加し約30年の歴史がある)

3.NPO法人成徳会 (平成7年から参加し、中村会長の片腕として競技会で実績を築いた、約20年)

4.和道流武修会 (設立当初から続く団体武蔵野市連盟で約60年)

5.横河電機空手同好会 (平成25年参加)

6.日本獣医委生命科学大学 (平成26年参加)

7.教空会空手道場 (平成25年参加)

8.武蔵野東中学校空手同好会 (平成25年参加)

 

最近の活動状況

 平成27年度の活動は順調で、まず都民体育大会で本連盟としては空前の成果を挙げた。

 都民大会では実に49年ぶりの入賞だった。8位と言うことで裁定の成績ではあったが、それdも半世紀ぶりの入賞でありり、運営は正常化されている。なおこの年3月に武蔵野糸東会は本連盟に復帰し、現在7団体で問題なく運営されている。

 12月には、所属団体の教空会を中心に、Xマス子供空手大会を開催し、賑やかな歳末を過ごした。連盟の中から参加した団体は、子供だけの大会であるため、赤門道場、成徳会、教空会の三団体に止まったが招待団の参加もあり、相応の賑わいを見せた。

 

役員の異動

 名誉会長、会長、顧問は平成28年度途中でご就任頂いた。島崎会長は市連盟第三代会長である。それに伴い二代三谷会長は副会長に就任した。

 平成28年度末、会長の交代により内紛が起こり、理事会の決議により三谷副会長、依岡相談役は運営委員に降格となった。また退会していた露木正太郎氏が運営委員として再入会した。この内紛の余波を受け熊谷副会長もご自身のお申し出により副会長を退任された。そのほか連盟の都合により長年ご活躍頂いた木村 慶理事は退会された。

 以上が役員交替の状況である。